ただ”ある”自分の価値を受け取る
今年の1月2月は、fworksのほとんどの活動をお休みして、冬籠りしています。
理由の一つとして、大学受験を控えている息子のため、ということがあります。が、
昨年、スタジオを開いてから1年間、突っ走ってきたので、ここで思い切って2ヶ月休養し、自分の心の中に潜ってみる時間を過ごしたい、というのもそれと同じくらい大きな理由です。
その冬籠りも5週間を過ぎ、思った以上に深い味わいのある、貴重な時間となっております。
今まで、毎日のように新しい出会いがあり、考える間も無く動き続けてきたことを、ピタッと止める。最初の1週間は、ひたすら休みました。その後、あれ、自分は何をするために生きているのだろう。稼がないことの恐怖と人とのつながり、エネルギーの交換ができない寂しさに、一瞬、陥りかけました。
かつて、正社員だった時に、産休から育休→退職で10年間専業主婦をしていた時も、稼げないこと、社会から隔絶される恐怖もありましたが、その時は”お母さん”という役割があった。
それも、ない。
でも、今回は、”全ての役割、お金との価値交換”を手放した時に、自分に何があるか?ただある自分の価値はなんだろうか?
ということを、感じる時間になっています。これに気づいてから、おもしろい気づきがいっぱいあります。
以前だったら、華やかなこと、頑張って成果が出ている外の世界に目が生き、”そうでない自分”にもどかしさや悔しさ、羨ましさを感じ、いちいち落ち込んでいました。あー早く仕事に復帰した、認められたい、自分の存在価値って何?どうすれば自分に価値が見出せる?
できてないことにばかり気になり、人と比べて落ち込んだり、卑下したり。”今”を否定していたんですね。こんなはずじゃない。自分の価値は、こんなもんじゃない!もっとできるはず!って。
今回も、一瞬、そういう気持ちに陥りかけました。でもね、途中で気づいたんです。
”ただある自分”の存在価値に。
それは、寒空に、ただじっと立って、芽を膨らませ、花を開かせようとしている樹々を眺めていた時。
神社の裏山に登って、ごうごうと樹々を揺らしながら吹いてくる風を感じた時。
寒い朝、洗濯物を干しながら浴びる朝日を感じた時。
植物も、風も、太陽も。
人間を喜ばせようとして、花を咲かせたり、心地よい空気を送ったり、暖かい光で洗濯物を乾かしているわけではありません。
ただ、存在としてある、だけ。褒めてもらうためでも、お金と価値交換するわけでもない。
でも、人間だけでなく周りの動物や植物にものすごい沢山の恩恵を与えている。
自然の中で、一人ぼんやり過ごしていた時に、あ、今の私もおんなじ!
と気づいたんです。
ただあるだけ。それ以上でも以下でもない。
それだけで良いんだ。
みんな同じ、全ては一つ。
ネガティブもポジティブも一緒。
冬籠りもあと3週間。
どこまで腑に落ちているか。
春はすぐそこ。